ジャ

doorniatama2007-10-23

『世界』までのジャ・ジャンクー映画における一貫された視覚的テーマとして、画面内の奥行き、カメラから画面外のある場所までの距離、その間での登場人物の移動などが挙げられる。このことは、最初期作である『一瞬の夢』の冒頭、シャオ・ウーが旧友ヨンの結婚式に招待されていないことを知り、別の友人からヨンに電話をかけさせた後、自らヨンのところへ歩いて行くシークエンスですでに確立されている。まず、友人が経営する店舗の立ち退き要請に来た警官から結婚式のことを聞かされるショットではすでに、店の壁から壁への距離を巻尺で計る様子がパンで追われており、その後には、結婚式の準備をしているヨンがいる地点と、ビリヤード台のある地点とを電話による会話でつないだ切り返しショット、そしてヨンが電話をしていたまさに同じ地点の同じ構図までシャオ・ウーが歩いていく移動主観ショットが続き、人物間の距離とその移動にかかる時間が強調される。また、これへの対比としてテレビ、電話、ポケベル、ポピュラー・ミュージックなど現代のコミュニケーションの中心にあるような要素が、向こうから勝手にこちらへ接近して来るものとして何度も画面に登場する。この例としては、「厳打」に関するインタビュー・シーンや、カラオケ・ボックスでの閉塞感、ラスト・シーンの通行人達からの視線などがある。
立ち退き作業を終えてカメラに向かって走ってくるトラックや、賑わう夜の街の風景を、道が伸びるのと平行な角度で撮影することで、「この地点からあの地点への」直線的な距離をシャオ・ウーとその他の登場人物(または社会全体)との距離と重ねて表した『一瞬の夢』に比べ、次作『プラットホーム』はその直線の始点が定まらない群像劇であり、距離というテーマはより重層的な意味を持つようになった。ほぼ全編がオープン・フォームのロング・ショットで撮影されたため、画面内における登場人物たちの重要度が下がり、その代わりに、ロケーション撮影の背景が持つ力が強調された。また、『一瞬の夢』でも見られたような、主人公達を中心とした語りから視点が脱線していくシーンが増えた。例えば『プラットホーム』では、4人の劇団員が中心となって語りが進んでいくことを期待させるが、巡業先でミンリャンが再会した親戚のサンミンや、新たに劇団に加わる双子のダンサーをしばらく追い、またふと主線に戻ってくるような見る側の意識を散らす視点で撮られている。また、『プラットホーム』で新たに加わった要素として女優チャオ・タオによる歌やダンスがある。すでに述べたように、『一瞬の夢』でのテレビやポピュラー・ミュージックは、距離の遠近や、それ自体が持つ伝達能力による移動の不必要性を意味していたように思えるが、本作からジャ・ジャンクー映画に繰り返し登場するようになったチャオ・タオのダンスは、テレビからのニュースやラジオからの流行歌と同じ役割を持ち、それまでの意味に加えて、画面外世界の「代表」、もしくは「誤写」という意味を補足している。つまり、無限に広がる世界を自分の経験的で主観的な領域にまで圧縮して、他者に見てもらい楽しませるダンスという行為は、画面に入りきらない世界を画面内に、しかも主人公達よりも小さい物質として納めるテレビと同じ働きをしている。そして、ジャ・ジャンクーの観客も映画内の登場人物もみな分かっているのは、ダンスやテレビというものが、「これが世界だ」と語りかける反面、「世界そのもの」では決して無いという矛盾ではないだろうか。ここで、ジャ・ジャンクーにおける「世界そのもの」について考えるときに気をつけるべきは、画面外から聞こえる音声と画面内の(例えばテレビやラジオが構図の中に入っていて、主人公がある程度能動的に聴いている)音声との区別である。テレビやラジオという媒介物によって圧縮された音声は、主人公達にとってさほど脅威ではないが、画面外音声の下に配置されると彼らはたちまち無力になる。つまり、展開していくドラマと全く関わりの無い内容の流行歌や共産党のアナウンスが画面外から天の声のように重ねられる事で、スクリーンに納まらないほど巨大なものによってコントロールされているような、抵抗しようの無い残酷な状況に置かれることになるのである。この画面外音声は、中央政府の経済政策によってトップ・ダウンで形成された活気や多幸感に満ちた全体イメージから個人レヴェルで分離していくジャ・ジャンクーの『青の稲妻』までのテーマに、ひとつの表現形式として大きく貢献している。『青の稲妻』の冒頭で、ビリヤード場から出てきた2人の主人公に、宝くじに関するアナウンスが画面外から重なり、そしてカメラと彼らの間を横切った警官達に釣られるようにカメラがパンして、公衆電話での逮捕へとつながるシーンは、画面奥からビリヤード場、主人公達、犯人と警官、アナウンス、という画面外音声を含めた4層で成り立っており、主人公達が画面内で持つ力は極端に弱くなっていることがわかる。
また、『一瞬の夢』で、シャオ・ウーが衰弱したメイメイを見舞ったシーンで見られた、画面の上半分が窓からさす自然光の白によってぼやけていて、下半分に主人公達がその自然光に背を向けてカメラ側を向いて座るような、いわば逆光のショットが、『プラットホーム』から『青の稲妻』にかけて多用され、そのコントラストも強化されていった。ここでの自然光もまた、画面外音声に加え、「世界そのもの」の記号化として読み取ることができる。これは単純に、外世界からの圧倒的な力としての太陽光という解釈もできるが、ここでは、「世界の圧縮」として登場するテレビが人工の光源であるのに対して、「世界そのもの」は画面に納まりきらない自然光に当たると考えることにする。このことは、『青の稲妻』において、「世界の圧縮」たるダンサーのチャオ・タオが外を歩くとき、いつもカーディガンを日除け代わりに使っていることからも見受けられる。登場人物が世界から分離している事を表すシーンとして『プラットホーム』のテレサ・テン