ca

序論
アメリカの映画監督、ジョン・カサヴェテスJohn Cassavetesについて映画史上で語られるとき、(インディーの本引用)といった言説が広く用いられ、また、ジェイムズ・モナコJames Monacoが

アメリカでは個人的、独立的な作家中心の映画が打ち立てられて後進への道を拓いた。その最初の重要作品のひとつがジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』(1960)であった。(258)

と述べるように、(特にこの時期にフランスで始まっていたヌーヴェル・ヴァーグと重ねられ、時に対比される形で、)現在までに展開されてきたアメリカ映画の独立的、作家中心的な映画制作に一つの文脈を求める場合、スパイク・リーSpike Lee、ジム・ジャームッシュJim Jarmusch、ジョエル・コーエンJoel Coenとイーサン・コーエンEthan Coen、ハーモニー・コリンHarmony Korineなどの、やはり独立的と言える映画作家へと繋げられる流れの大きな始点として取り上げられることが多い。結果的にカサヴェテスが流れの始点と成り得た要因については幾通りかの推測が成されるが、特にその中心として考えられるのは、レイ・カーニーRay Carneyが、

Cassavetes understood that his films offered new forms of experience. When we watch them, we are asked to participate in new intellectual and emotional structures of understanding.・・・ Our nervous systems are reprogrammed. Our range of sensitivities is subtly (and sometimes not subtly) shifted. We are made to notice and feel things we wouldn’t otherwise. (2)

と指摘するような、純粋な知覚としての映画体験における新しさ、および異質さである。その新たな体験の一形態としてカーニーは、

From Griffith and Capra to Coppola, Scorsese, and De Palma, the main line of American feature filmmaking uses the consciousness of one or more central characters as the organizing center of the narrative (77)

のように、何人かの登場人物の意識を通して語りに主体を持たせる技法を、アメリカ映画の主流として挙げ、さらにその最たる例としてアルフレッド・ヒッチコックAlfred Hitchcock監督が1960年に制作した『サイコ』Psychoにおける感情移入の効果を導く語りについて、

We enter into and participate in their points of view − optically, psychologically, and intellectually. Hitchcock’s camera has such intimacy with his characters that it not only allows us to see into their hearts, minds, and souls, but often allows us to move inside and look out. At moments, we can virtually be Marion, Lila, or Norman. (77)

とした上で、それに対してカサヴェテス映画においては、

In his work we watch characters not the way we watch ourselves, but the way we watch other people. ・・・ We look at his characters. We eavesdrop on their actions and words, but can’t read their hearts and souls. (77〜78)

と述べるような、登場人物に対する“intimacy”を観客に与えないような語りが優先されるとし、さらには、

The veiling goes on in different ways throughout the films. Not only is our knowledge of interiors blocked (what characters feel, intend, know, or essentially “are”); our view of exteriors also is frequently occluded (our ability simply to see or hear characters or to see or hear what they are responding to). (79)

と指摘している。登場人物の心象内外での“veiling”の実践についてカーニーは、カサヴェテスが1968年に監督した『フェイシズ』Facesを例として挙げ、

At a climactic moment in Faces, after Richard asks his wife, Maria, for a divorce and calls Jeannie on the phone, Cassavetes withholds a close-up of Maria’s face. Her protracted silence and turn away from the camera during and after Richard’s call is much more imaginatively stimulating than her visibility would be. ・・・Characters mention things that happened outside of the space or time of the narrative, whetting the viewer’s appetite to understand them, yet denying him to access to them. (80)

と主張している。この主張自体は正しいように思える、しかしながら、ここでは“whetting the viewer’s appetite to understand them”というような作家主義的な見方がなされており、そもそもカーニーがあらかじめ強調していたカサヴェテス映画における“new forms of experience”は、監督であるカサヴェテスが観客へ提示したものとして、また観客にとっての“new intellectual and emotional structures of understanding”はカサヴェテスから強要されたものとして、見なされている。つまりカーニーの言説上では、映画史上にも置き換えることのできるであろう“Our range of sensitivities”の微かなシフトが、カサヴェテスによって成された、と説明されるにとどまっており、(それがカサヴェテス自身の意図であるかどうかに関わらず、)例えばカーニーの指摘した“veiling”の結果として私たち観客は何を見ることになるのか、つまり、その微かなシフトとはどういった形態で起こるのか、という問題が疎かになっている。さらには、カーニーが、

Cassavetes’ goal is to force a viewer to confront the full complexity of sensory reality for as long as possible before making the simplifying move from perceptions to conceptions. (81)

と述べるときの、“the simplifying move from perceptions to conceptions”は、カサヴェテス映画を前にしては常に避けるべきこととされ、カサヴェテス映画の分析を半ば放棄するように、“Closure and resolution are the enemies. Absolute openness is the ideal. ”80 としている。このように、カサヴェテス映画によって生まれる複雑な形態を持った知覚をむやみに単純化しようとせず、知覚のままにしておこうというカーニーのアプローチに対してジョージ・クヴァロスGeorge Kouvarosは、
Just as worrying, Carney’s writings continue the trend of situating Cassavetes’ work as somehow beyond the reach of debates involving cinematic representation. Such a framing succeeds in sustaining many of the commonplace understandings of Cassavetes as a “maverick” and “radical individualist.” (27)
と、先に述べたようなカサヴェテスの映画史上での立ち位置も含めた懸念を示している。本論ではこれを受けて、『フェイシズ』を主なモデルとして、カサヴェテス映画における特殊な“cinematic representation”の形態を、つまりカーニーが言うところの新たな、異質な映画的体験を、すでに交わされてきた映画における現実感についての諸議論を通して分析する。
また、本論において“the simplifying move from perceptions to conceptions”へ陥るという事態を避けるために、ここでは先ず、本論で繰り返し取り扱うフランスの批評家、アンドレ・バザンAndré Bazinが広義で用いたリアリズム論について捉え直す必要がある。それは例えば、バザン以降の批評家であるパスカル・ボニゼールPascal Bonitzerが、
アンドレ・バザンによれば、二種類の映画作家がいるという。現実を信じる映画作家と映像を信じる映画作家である。たとえばモーリス・ピアラは現実を信じる映画作家といえるだろうし、ゴダールは映像を(映像だけを)信じる映画作家といえるだろう。そこには常にリュミエール的なものとメリエス的なものの対立がある。 (8)
と述べるときに、バザンが一般的には“映像を信じる映画作家”よりも“現実を信じる映画作家”を尊重するような一つの主張のことであり、彼がオーソン・ウェルズOrson Wellesとロベルト・ロッセリーニRoberto Rosselliniとを、
正反対の技術的手段によりながら、両者ともに、ほとんど同じように現実を尊重する《デクパージュ》へと達している。オーソン・ウェルズの空間的深さとロッセリーニのリアリズムへの決意とが、ともに同じように、である。そのいずれにも、われわれは、背景(デコール)に対する俳優の同じような依存関係、カメラの視野の中に現れる全ての登場人物たちに彼らの劇的《重要性》がどうであれ均しく課せられている同じような演技のリアリズムを、見出す。(47)
と結びつける際に、この二者が共有するとされる演出上の要素のことであるが、ここでの捉え直しとは、言わばその“オーソン・ウェルズの空間的深さ”と“ロッセリーニのリアリズムへの決意”を、同じ一つのリアリズムとして片付けるのではなく、もう一度、二種類の現実感として区別することである。
まず、バザンの言う“オーソン・ウェルズの空間的深さ”とは、

古典的なカメラのレンズが場面(シーン)内の様々な場所の上に次々と焦点を合わせてゆくのに対して、オーソン・ウェルズのカメラは、劇的空間の中に同時的に存在する視覚的空間の全体を、同じ鮮明さでとらえてしまう。(30)

とある通り、ウェルズが『市民ケーンCitizen Kane(1941年)の所々で用いたような、ディープ・フォーカスや1シーン1ショットといった技法の、画面内に映る全ての対象への平等さ、つまりトマス・エルセサーThomas Elsaesserが、

Dramatic realism is achieved in the deep-focus, long-take shot because it refuses to separate several planes of action - the actor from the décor, the foreground from the background – since it respects the spacio-temporal unity of the scene. (199)

と説明する“dramatic realism”にあたる言葉である。
次に、“ロッセリーニのリアリズムへの決意”とは、バザンが、“全体的な意思による、現実の全体的な描写”と定義したネオ=リアリズムの中心的存在であるロッセリーニ映画における現実性について説明するために用いられた言葉である。バザンは、ネオ=リアリズムについて、

ネオ=リアリズム的と言われるすべての映画(フィルム)の中に、まだ、見世物的・劇的な、あるいは心理主義的な、伝統的なリアリズムの残滓があります。それらの映画を次のようなやり方で分析することもできるでしょう。すなわち、他のものよりも記録的な現実性の方が勝っているかです。(221)

とした上で、ロッセリーニを、

彼の場合には、文学的なものも、あるいは詩的なものも全くない。お望みなら、言葉の快い意味で《美しい》と言っていいものさえも、全くありません。彼は出来事を演出するだけなのです。 ・・・ あの『ドイツ零年』の少年の、幻覚めいた死への歩み!それは、ロッセリーニにとっては、仕種と変化と肉体的な運動とが、人間という現実の本質そのものを構成しているからなのです。ということは、また、それらの仕種と変化と肉体的な運動とが、様々の背景(デコール)を―その各々がさらにまた通過しながら登場人物を横切ってゆくような背景(デコール)を―横切ってゆくということでもあります。 (221)

と賞賛する。つまり、ここでバザンが強調するのは、登場人物と背景(デコール)とが平等に撮影されている、つまりロッセリーニがカメラの本来持っている記録性を重要視していることである。これにはモナコロッセリーニの『無防備都市』Roma, Citta, Aperta(1945年)について、

ドイツ軍占領下のローマにおいてひそかに計画されたこの映画は、連合軍による解放の直後に撮影された。 ・・・ レジスタンスのリーダーと司祭がゲシュタポに捕えられ殺されるという物語の『無防備都市』は、凄まじい緊張感によって際立っているが、それは制作されたその実際の時と場所から直接に生じたものであった。ロッセリーニは手に入るあらゆるフィルム−それはしばしばリールの撮り残しの分であったりしたが−を用いて撮影を進めた。 ・・・ アンナ・マニャーナとアルド・ファブリッツィを除けば、役を演じていたのは全員素人だった。(250)

と述べるような制作時の状況が深く関係している。つまり『市民ケーン』と『無防備都市』とに共通してあるのが、登場人物と背景(デコール)を引き離さない平等な視点であるとしても、『市民ケーン』の背景(デコール)には『無防備都市』の背景(デコール)そのものが放つ強い歴史性が無く、また、『無防備都市』の演出には『市民ケーン』のディープ・フォーカス及び1シーン1ショットに見られるような、形式そのものによるリアリズムは無い。エルセサーは、バザンを受けて、

Ontological realism restores to the object and the decor their existential density, the weight of their presence. This is achieved by means of the photographic image’s automatic, mechanical recording capacity, which takes a mold in light of reality: ・・・ (199)

と述べ、 “dramatic realism”と“ontological realism”とを以上のように区別しているが、本論では、ここまで述べてきたように、例えば『市民ケーン』が持つようなリアリズムの性質を前者に、『無防備都市』が持つようなリアリズムの性質を後者に、それぞれ分類し、これら二種類のリアリズムの結果として現れる、より包括的な三番目のリアリズムとしてエルセサーが挙げた“psychological realism”(199)の、カサヴェテス映画における形態を検証する。
なお、カサヴェテス映画を用いた“cinematic representation”に関する議論の必要性を主張したクヴァロスは、“ontological realism”的な側面から『フェイシズ』を分析しており、本論の第一章では、クヴァロスの分析をベースとしながら、『フェイシズ』に見られる、物語映画的な演出に対する“ontological realism”について述べ、続く第二章では、クヴァロスが取り上げなかった“dramatic realism”に対しての、『フェイシズ』に見られる空間的不連続性について述べ、“cinematic representation”及び“psychological realism”についての結論へとつなげる。



第一章 物語映画的な演出に対するontological realism



第二章 dramatic realismに対する空間的不連続性



結論

In its most extreme form, Cassavetes’ nonestablishing becomes antiestablishing. 80



参考文献

Elsaesser, Thomas. and Buckland, Warren. “Realism in the photographic and digital image”. Studying Contemporary American Film. London: Arnold, 2002.
Giannetti, Louis. Understanding Movies. 9th ed. 2002. 『映画技法のリテラシーⅠ─映像の法則』.堤和子他.東京:フィルムアート社、2003.
─. Understanding Movies. 9th ed. 2002.『映画技法のリテラシーⅡ─物語とクリティック』.堤和子他訳.東京:フィルムアート社,2004.
Monaco, James. How to Read a Film: The Art, Technology, Language, History, and Theory of Film and Media. 1977. 『映画の教科書─どのように映画を読むか』.岩本憲児他訳.東京:フィルムアート社,1983.

Cassavetes, John, dir. Faces.

Rossellini, Roberto, dir. Roma, citta, aperta.